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青春旅行 その2

さて、大学卒業寸前、クラブ熱心/授業不熱心の悪行の報いで卒論の他に取りこぼした最後の試験が済んで、就職先(東海地方の丁稚奉公先)に就業が少し遅れると了解を取ってから山口県庁を出発点に選び、その朝面会したかった県知事は不在の為代理として秘書課長の達者な筆遣いでサイン帖の最初のページに記帳して貰い、正門で大きく深呼吸してから一歩を踏み出し、東京の日本橋まで千キロの旅に上った.3月上旬の事。何事も経験だと思い、その足で新聞社に立ち寄って自分を売り込み、記者は写真入りで朝日の山口版に掲載してくれた。

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歩き出して三日目、山口県境を越えた頃から早や足の豆が膨れ上がり、特に小指のそれは見たことのない見事なマメで、指は丁度倍の大きさ。誇張ではなく一歩毎にうめかねばならなくなった。我慢しつづけて広島市の手前、二十日市町(現廿日市市)で耐えられなくなり、少し日は高かったがキリスト教会に宿を乞うた。

このような旅では、よくお寺に泊めて貰う。 玄関先で名を名乗り旅行の目的を説明すると、大概のお寺が快く泊めてくれた。世の中、大らかだった。夜、和尚さんにお願いして庫裏の居間で講話を聴かせて頂き、翌日は泊めてもらったお礼に本堂を掃き清め、庭も掃除して辞すのを通例とした。浄土真宗が多く、お陰で親鸞には少し詳しくなる。前のお寺で仕入れた話の続きを乞うと、喜んで夜おそくまで話してくれた。

寝場所は他に、道端の廃車の中/公園のベンチ/ユースホステル/駅で何故だかわざわざ入場券を買ってプラットフォームで寝た事もある。それまでの旅と異なり、荷物は着替えの入ったリュック一つだから3月とは言え毛布もかぶらずに外気の中で良く寝られたものだ。だから尚更の事、道程に点在した親戚や友人/先輩の下宿先は贅沢極まりない宿であった。

然し運悪くこの廿日市では沿道にお寺が見つからず、田舎でないので道端で野宿も出来ず、けれども公園があるほど都会でもなく、旅館に泊まる気はさらさら無いので探しもせず、目に止まった教会に気息エンエンで申し込んだが断られた。恨みはしないがこれはつらかった。足が痛くて歩けない程だったのはその日だけ。

山陽道はそれでも足どりは常に重い。 道中姿は道路端で拾った傘をリュックに差し、軽めのトレッキングシューズにコール天のズボンとウールの長袖シャツ、車よけに黄色いヤッケを着込み、頭には登山帽。ハイキングに近い気楽な格好で痛みをこらえながら、それでいていつ どこで寝てもよい気持でいるから、のんびりした気分で国道を歩いた。

歩きは単調だが、少しづつ変わる景色に退屈する事は全くない。若い一人旅は警戒心を起こさせないのか、さまざまな人達が話しかけてくれる。旅の目的を知る由も無いままに車に乗せてやろうか、との誘いは良く受けた。また、立ち寄った食堂のおばさんと話しこむ事もあるし、雑貨屋さんに寄ったら泊まって行けと親切を受けた事も。その雑貨屋さんは裏表を鉄道と国道に面しており、家は一晩中揺れ動き騒音もひどかった。翌朝二階から降りて家の人に、いつも熟睡できるのですかと失礼極まりない質問をしてしまった。返事はいとも簡単に、はい出来ますよ。

姫路のお寺ではマメに利く、とムカデのアルコール漬けを塗ってくれた。有難く受けたその自家製の薬は実に実に臭かった。西宮の兄の家で何日か中休みが出来た上にムカデも利いたのだろう、大阪を過ぎる頃にやっと足が歩きに慣れ、痛みも少なく快調になった。

道中の資金について触れておこう。私の旅のスタイルは常に節約旅行ではあっても無銭旅行ではない。普通の旅館に泊まらないのは、その方が他人との接触面積が大きいからだ。野宿もそれが新鮮で青春旅行にふさわしいから。お金は安全の為余り持たなかったが、実家に折々葉書を出し、例えば岡崎を何日頃に通るという予定と必要な程の金額を知らせ、岡崎郵便局に局留めで送金して貰って受け取った。 クレジットカードの無い世だったが、仮にあったところで買い物をするわけではない。夕食に道端の店でホルモン焼きにありつくのに使えはしない。

東海道は弥次喜多道中に惹かれてか、同じような若い徒歩旅行者にしばしば出会う。出会えば道端で話しこむ。皆気の良い若者ばかりだった。

怖いのは国道トンネルを通過する時。 国道一号線は大型トラックがひっきりなしに轟々と通り、歩道のない狭いトンネルでは<ここだけでも車に乗せて貰おうか>と何度真剣に考えた事か。1mでもそれをすると旅の値打ちが下がると思って結局それは出来なかった。

三重/愛知/静岡と県境の案内標識を越えるたびに確実に終着点が近づくとの実感と、振り返ってそれまでに歩いた距離を思い、感慨と共に体の中から新しい力が湧いてきた。

富士山は左手に4日間眺める事が出来た。山頂の、雪を載いた美しいさまもさる事ながら、その雄大でふくよかな裾野の拡がりを二日半掛かりで実感した。

沼津を出発して箱根山を越える時は時期外れの雪。春の湿っぽい雪の積もった、人の通らない旧街道を延々と登ったが、寒かったと言う記憶はない。その晩は小田原泊まり。

東京都には記憶に依れば新丸子橋から入った。高校時代の同級生が途中で待ち構えていて、4月16日その日終点日本橋まで一緒に歩いてくれた。千キロを旅程40日、実走30日だから、平均一日30キロあまり歩いた勘定だ。

帰りは大阪まで開業して程ない新幹線に乗った。実にあっけないものだ.15日掛かって歩いた東京大阪間がたった3時間半。でも見方を変えれば時速180キロで3時間半掛かる距離を15日で歩けたという事が出来るかも知れない。

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多くの人達に行きずりの暖かい親切を受けたこの旅が、私の人生観にどう作用したか。実の所、あらかじめ期待したほどのものは感じなかったところが悔しかった。一つだけ、どん底生活にも耐えうる自信くらいか。でもこれとて生活感のあるどん底ではない。

旅行を終え目的点の日本橋を後にしながら、哲学的な感想はなく殊更深い感動も無く、さすれば結局は遊びだったのかという自省にまごつくのである。実社会に入り、旅への興味はそれを境に薄れて行った。

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振り返って今これらの一人旅を思い出す時、強く印象に残るのは決して名所旧跡ではなく、どこにでもありそうな何気ないある瞬間の自然のたたずまい。そして進んでも進んでも後ろから付き従ってくる、そこはかとない寂寥感。

漠然として形に見えない何かを追い求めた私にとって、青春旅行は虹のようなものであった。虹のアーチの脚元まで行ってみたが、東京日本橋の立派な石造りの欄干のたもとに桃源郷は無かった。

然しもう一歩先に何かあると期待しつづけた、若さに溢れる私は確かにその時そこに存在したのだ。

その旅行好きを知っていた家内が私と結婚した時、あちこち旅に連れて行ってもらえると密かに期待していたそうな。申し訳無い事だ。これも虹か。

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人生は往々にして旅に喩えられる。私はこの喩えを逆からも読んで、旅を人生の行く末と見立て、今後の人生がどのようなものであれ それに耐えてこの世にそれなりのスタンプをついてみたい、そのささやかな予行演習がこの旅だと考えを加えた。私を駆り立てた幾つかの動機の大きな一つだった。

旅を終えた時に感じた心を、敷衍して今考えて見るに、では 人生に耐えて抜きん出た実績を残した者は充実した達成感と共に一生を終える事が約束されているのかと自問するのだ。ここから先は想像に過ぎないが、人生全体の達成感とは勿論高遠なものからも生まれるだろうが、実は案外身近なところにもちゃんとあって、子供達がしっかりと成長したか、夫婦仲は良かったか、などという家族関係に大きく帰趨するのではないだろうか。

死の床についた時、最終的には平凡な事柄に人生の意味が存在するとなれば、ユニークな擬似人生旅行を終えてもそれ自体に感動し得ず、その事を不審に思うに関して、お前そんな自分を許してやれと言うべきか。でもこの考えを若いうちに知らなくて幸いであった。人生の最初からこう考えていたら、戦う気迫を持つことなく矮小な世界観のうちに終始しようとしたに違いない。

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この小文を書くため、当時の資料を出して見た。写真の数は全ての旅行を合わせて写真帖に一冊。他には携行してもうぼろぼろに千切れた道路地図、経路と泊まった町がペンで書きこんである。日記帖は旅の荷物になるので持たなかった。サイン帖は受けた親切に礼状を出す為に持っていたが、家のどこかにあるはずが探しても見つからない。あとは記憶を辿りながら打ちこんだ。

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もし、読者の中で昭和42年春にこのような男に話し掛けたり、家に泊めた事を思い出した人はどうぞご連絡頂きたい。改めて御礼を申し上げたい。

2001/2/25

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