音楽そしてコントラバス    管理人室    音楽ホール    バシスト控室    工房    ギャラリー    遮音室    娯楽室    ロビー
音楽そしてコントラバス・トップ>娯楽室>このページ

青春旅行 その1

大学時代、よく旅をした。 そのきっかけは、二年生の夏高校時代の友人二名を誘って行なった、いつ壊れてもおかしくないボロ車による九州一周旅行だった。青春の記念に今しか出来ない事をやって置きたい…そんな気持から。従って歳を取っても出来る物見遊山は目的にしなかった。

*

車の後部に<九州一周エンコ旅>と書いて裂いたシーツを幕のように張りつけ、寝袋を積みこんでの五日間の旅は案の定、実に楽しかった。この旅の記録を後になってノートに記している、28ページ分。 内容は本論から外れるので端折るが、その中の二つだけを挙げる。

ひとつは鹿児島/宮崎で受けた筆舌に尽くしがたい(と表現したい)ゆきずりの親切。 それ以降、鹿児島/宮崎県人には敬意を表する事にしている。もうひとつは以下に縷々述べて行く私の旅のスタイルを決定付けた出来事。

それは阿蘇登山道路を走りながら、自転車旅行の青年を追い越した時の私の気持ち。坂道を汗みずくの真っ黒になってペダルを踏むその青年に、車の上の私は漠然とした劣等感を覚えたのだ。青春の記念旅行なら彼のやり方は中身が濃い。

その感覚は旅行中ずっと私の心に残り、機会を作ってそんな旅をしてみようと考えた。

*

次の旅は、二ヶ月経った前期試験の後、自動車旅行の余勢を駆ってバイクによる単独瀬戸内海一周旅行。これに深い意味はない。自動車旅行の余韻のなかで、何となく未だ旅を続けていたい、それだけが動機。

往路を山陽路、復路は四国路、白いセンターラインを見つめて四日間走った。ただそれだけの旅だった。旅行の目的に体と心を鍛えると言う面を加えたのはその後だ。

*

翌年の春先からトレーニングを積んだ後、三年の夏はいよいよ自転車による<四捨五入すれば日本半周>を実行した。 バイトの収入で買った8段変速サイクリング車の後部荷台に 生成りのベージュの毛布を封筒状に縫って作った寝袋と黒い飯盒をくくりつけ、ハンドル前の小さいサイクリングバッグに着替えを詰め、四国一周までは一緒に行きたい、と言うクラブの後輩2名を連れて出発した。一周してからは別れて一人になり、岡山/大阪/伊賀/四日市/名古屋と巡り、一番北は新潟県糸魚川市まで到達した。

その間に、印象に残った事を書いて見よう。

徳島では丁度大きなシチュー鍋のように街全体が煮えたぎる阿波踊りの最中。栄養ドリンクの空き瓶が、町角ごとのごみ箱からあふれていた。私も自転車を捨ててたぎった。 ベレー帽にTシャツ/短パンと言ういでたちのまま、黙認されるのを幸い徳島大学生のさる<連>の後ろにくっついて踊りながら町を練った。見よう見真似の踊り方。大掛かりな照明に照らされた観光客用の大スタンドが設けられていて、丁度水泳プールの観覧席の形をしているが、隙間なく観光客で埋まったそのスタンドの真中を通過する時は一寸迷ったが、構うものかとそのまま踊り切った。

大阪の国道163号線を門真/四条畷から生駒山越えしたが、頂上を超えるまで自転車を一度も止める事なくこぎ登った。長い急坂を休まずにクリアした事で脚に自信を覚える。中津川から塩尻/松本を通って大町までは、朝8時に出発して夜12時まで延々とこぎ続けるのだが、上り下りの激しい木曽路を標高1043mの鳥居峠越えを含んでの一日行程だった。その日は当然の事ながら消耗し尽くした。

その大町では兄の寓居に自転車を置き、日本アルプス爺が岳にやはり一人で登山もした。自転車旅行で脚は鍛えられていたので、ほとんど休む事なく早足で頂上往復が出来た。頂上には30分も居ただろうか。

  一日に走った距離では、鳥取市から出雲半島の東の先端にある地蔵埼を経由して出雲市湖稜町までを220km稼いだ事もある。日が暮れてしまってから、湖陵町の国道9号線でライトを点灯させたバイクを併走させながら声を掛けてくれた青年が居なかったら、もっと進んでいたに違いない。見ず知らずの彼の家では晩かったにも拘わらず大変もてなして頂いた。今でも賀状をやり取りしている。一日220kmで驚いてはいけない。ある知り合った人は青森から山口まで、たった7日間でやって来た。この青年にも未だに年賀状は欠かさない。僅かの時間を自転車で一緒に過ごしただけの仲なのに。でも彼等ももう私と同じ壮年を過ぎかかっているはずだ。

書けばまだまだ沢山あるが、そんな事一つひとつに挑み、クリアして行ける自分が楽しかった。ごく大雑把なルートだけ決め、細かい寄り道も食べるも寝るもそのほとんどが偶然の積み重なり。 旅はおよそ1ヶ月、それによって自動車旅行の際に感じた劣等感は克服できた。

*

旅の感想は<思ったほどつらくなく、むしろ面白かった>というあっけないものだった。拍子抜けした私はもっと厳しい旅をと考えたが、あとには徒歩旅行しか思い付かない。実行する事にした。

またまたバイトに精を出す。 当時下宿代/食事代と年間一万二千円の授業料以外の資金はバイトで賄っていた。父は事業に失敗して家に余りゆとりはなかった。手工品の楽器代/合宿費/旅行代/90ccのバイクと維持費などにバイト収入は貴重だった。

徒歩旅行するにはそれなりの準備が要る。 打ち上げるロケットも地上での噴射実験が必要だ。そこで自信をつけるため、再度九州一周を今度はヒッチハイクで四年生の夏に行なった。この中の小さな出来事は別に小文を上梓する予定。この旅はここでは取り上げない。

徒歩旅行は住んでいた山口から東京までの1000キロを旅程に選ぶのに余り時間は掛からず、逡巡する事も無かった。

2001/2/10

home / up
   / 

home / up
   / 

image inserted by FC2 system