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瓦製造工場

五男で末っ子ではあったが、私は昭和42年大学を卒業して父の経営する陶器瓦製造工場を引き継いだ。設備が古くて時代に大きく取り残された工場、社員は15人弱居た。資金を投入して近代工場へ転換する希望を持たされて引き継いだのだが、入社した後になっておいおいに判った事には、大きな借金はないがゆとりの資金もないので今後も古い機械を補修しながら人力に頼る製造形態を続けて行く他はなく、仮に近代工場に建て替えられたとしても大量生産するのは市場性、原料の安定確保、その他から見ても楽観的過ぎた。

それでも最初の命令は名古屋の先進工場へ丁稚奉公、新しい製造技術の習得を目的に一年弱住み込みをした。先方の社長さんは大変可愛がってくれ家族のように扱ってくれた。工場は後述する我が社とは違ってかなり機械化され、ちょうどチャップリンのモダンタイムスのように人は自動機械に使われるのである。ストレスは溜まるので休憩時間に外へ出てウォーと大声を上げて解消していた。父から与えられた次の任務は建築現場での瓦施工見習い、当時はまだ屋根に瓦を上げるのに肩に担いではしごを上っていた。福岡で3〜4ヶ月実習した後に工場勤務となった。

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引き継いだ工場では、瓦を焼成する窯は石炭を原料とする倒炎窯。近くの国鉄の駅に燃料の石炭が産地から届くので、それをトラックで引き取りに行く。引込み線に止まっている無蓋車に横付けしてスコップで移し替え、工場に戻れば貯炭場に再びスコップで下ろす。ダンプなど思いつきもしない時代なので4t平ボデー車で3往復。この石炭引き取り作業は軽く一日仕事。

一方、瓦原料の粘土は工場近辺に確保した”どろ取り場”(ある場所は山であり、ある所は田んぼの上土をはねた、その下層土)に取りに行き、鍬やスコップで竹製の”てみ”に盛り、それごと抱え上げてトラックの荷台へ移す。田んぼを掘り進むと地面は段々低くなるが、そこから道路に停めたトラックまで結構距離がある。工場へ帰れば鍬で掻き下ろす。 どろ取りは必ず一日仕事、石炭と違ってねばいので厄介だ。土場へ下ろした原料土を使う時にも所定の作業場所まで一輪車を使って手積み手下ろしの小運搬。ほとんど全ての作業は人力を頼りにした。

現場の従業員は女が多かった。男と女では製造作業の内容は異なっていて、男の主な仕事は粘土板を瓦の形に成型する”プレス”、窯の中に半製品を積み上げる”窯詰め作業”、徹夜で窯を焚く”窯焚き”だった。私自身も男の現場作業員としての役割は他の男と同じようにこなしたので、当然のごとく窯を焚き、プレスを打った。一日当たりのプレス枚数ではレコード保持者なのである。加えて私は故障した機械の修理もやった。”三好さーん、機械が止まりました。修理して下さーい”と呼びに来る声は工場のにおいや機械の音と共に今でも思い出される。私は一体何の為に経済学部などを選んだのだろう、経理は信頼出来る社員がいたので帳簿付けなど一度もした事がなかった。

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女性の中におかちゃんという人が居た。 ”か”にアクセントがあってお母ちゃんという意味である。岡本さんと言う名前だったが誰もそう呼ばない。歳は当時で50歳くらいか、背は小さくどちらかと言えば華奢な体つきで端正な顔立ち。言葉数は少ないのに女性達の中心だった。 だから”おかちゃん”というのは尊称である。

皆の精神的な中心と言うばかりではない。 作業の進め方、体の使い方は最年長なのに若手の誰にも負けなかったし早くて確実だった。彼女を見ていると、作業は腰でするものだと言う事がよく解る。動きは腰が中心、無駄な動きがなく常に腰が安定していた。そして手早く仕事をしているという印象を与えない。若い女性達も含めて皆いつも一生懸命仕事をしていて、それは体の動きで解るのだが、彼女の動きはいつも静かだった。なのに一日が終わってみると作業をし終えた半製品の数は彼女が多いのだ。

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プレスを終えたばかりの柔らかい瓦は女性達によって形が整えられ、組立て式の木枠を使って棚積みされ、窯上の二階にある乾燥場で余熱乾燥させる。隙間風が吹き抜けるので、冬場の特に寒い夜は余熱で乾燥するどころか、窓をムシロで覆っても片っ端から凍てた。そんな夜は寝床でなすすべもなく心配ばかりしていた。凍てれば水に戻し、もう一度粘土として再利用するしかない。

乾燥した白地(乾燥を終えた瓦は白くなるので”しらじ”と呼ばれた)は窯の中できっちりと積み上げられ、窯への材料搬入口はレンガと泥で蓋をして火を入れる。窯に火を入れるのは夕方4時頃と決まっていた。焚き口は片側6箇所合計12箇所。それぞれに新聞紙から木片、石炭と徐々にくべて火を大きくしてゆくが、なかなか均等に進行してくれない.5時過ぎまでなら先輩がいるので心強いが夜中は一人ぼっち、時間が経っても火勢の上がらない焚き口にやきもきするのだった。

火が強くなれば石炭の燃えカスが火床のロストルに溜まり酸素の供給が悪くなるので、しばしばアス掻きをしてカスを落とし、落としたカスが溜まれば焚き口毎にスコップですくい出して一輪車で捨てに行く。この作業は塵埃が凄くて髪の毛一本一本まで真っ白になってしまう。こんな孤独な汚れ作業をほとんど休むことなく明け方まで続けるのだ.30分も手を休める事が出来ると眠ってしまうからむしろ寝る間がない方が良かった。

窯の中の製品温度は常にチェックするのだが、それには窯にあけた小窓から覗き込んで製品の焼けた色合いで判断する。赤から白に変われば千度を越したと判るのだ。

このような深夜の窯焚きはラジオ放送を聴きながらだった。明け方、黒から藍色に変わってゆく景色の底で深夜放送から流れるビートルズの新曲は強い印象として残っている。

窯焚きは朝8時に交代するのだが、火はその夕方まで焚いて、焚き始めから24時間後に火を止める。火を止める直前に焚き口の真っ赤な石炭の上に工業塩を振り掛ける。これは塩焼きと呼ばれる由縁だが、塩はカリカリとはぜながら白い煙となり、高温の為に白みを帯びて光る製品の隙間を通り抜ける際に表面に付着して独特の深い赤に発色させると共に凍てに強い丈夫な瓦になる。

実のところは塩害という公害の発生源となるのだが、当時はそんな認識を誰もはっきりと持っていなかった。もし塩焼きの瓦をお使いで、あまり悪くなっていなかったら、二度と作れない歴史的な工業製品として大事にして頂きたい。

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瓦の形はフレンチ瓦と呼んでヨーロッパでは伝統的な形の平板瓦らしい。この形の瓦製造工場は数少なかった。窯出しの際に製品の良否を何段階かに選り分けるのだが、良い結果が出るかどうかは窯焚きの腕に掛かっており、大変気になった。

塩焼きフレンチ瓦以外の陶器瓦の製造方法は、そのような零細工場形態から脱却しつつあって、主要産地では既に大量生産に向いた連続焼成が出来るトンネル窯が主流になっており、とても太刀打ち出来るものではなかった。それでも製品が特殊だったのでわずかではあるが独自の販路があって、確実に良品を作り続けていればいくばくかの余命はつなげるのだが、設備と生産効率が悪い為に生き残りは困難だった。

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工場で製造を担当して二年経った頃だったか、名古屋へ出張をしている時にせき込んだ電話が掛かって来た。”工場が火災に遭っているので直ぐに帰って来てください”驚いて直ぐに山口県に戻ってみると、焼け崩れた工場の灰の中で窯が申し訳なさそうにその裸の体を陽に晒しており、一寸離れて煙突が無意味に突っ立っていた。家内の話では真夜中に猛烈な火炎だったそうな。材料を積み重ねて乾燥させる棚枠が窯側に倒れ掛って火がついた事が原因のようだが、工場敷地は広く民家に移り火しなかったのは幸いだった。その後に会議を何度か開いて、大きな借金もなく身軽だったので工場閉鎖を決め、社員全員が退職するのを見届け残務整理をしてから自分自身の再就職を決めた。 

しかし今振り返れば、あの時火災に遭っていて良かったと思う。さもなくばふんぎりがつかないままにずるずると借金を抱えるか、もしくは無理をして近代工場を建設したまま先進地域の激しい競争に巻き込まれて、投入資金を回収することなく倒産していたに違いない。

山口県のそのあたりはかつて有数の良質陶器製品の産地であり、近在には皿山(陶業をなりわいにする事業所をそう呼んだ)が無数にあって賑わいを見せたが、平成の今も残っているのは小物陶器を作るたった一社に過ぎない。

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個人生活の事だが、工場を引き継いで間もなく結婚をした。住まいは工場の直ぐ近くに古い役員住宅があってそこに住んだ。狭くはなかったがひどい家で雨漏りがしないのは一部屋だけ、その部屋に新婚家具を集めてそれらと一緒に寝た。そのほかの部屋には雨の日は洗い桶/バケツ、果てはありったけのどんぶりまで並べて畳が濡れるのを防いだ。

窯焚きの翌朝は、家に帰って風呂と食事をして寝る。新婚の家内は妊娠するまで県職を辞めなかったので私の世話と自分の仕事で彼女も大変な労苦を重ね、保健所の栄養士なのに何と栄養失調になってしまった。

その家に五右衛門風呂があって湯を沸かす為に廃油バーナーを自作したが、ゴーッとすごい音を立てて炎が出る。家内は怖がりそれを使うのを嫌がったが、何せ燃料はガソリンスタンドの廃油を使いタダなので背に腹は変えられず強制した。風呂の湯を沸かすのは私の知る限りどこの家でも主人の役目ではなかったから家内は泣きながら沸かしたそうだ。それを私は知らない。

家内は私が工場を担当していた新婚時代が一番暗かったと言う。余り思い出したくないとも言う。そうだろう、私にとっても工場経験は2年でしかないのに、廃業した後10年近くも工場が上手く動かずどうしようと悩む夢を一ヶ月に一度位の割合で見続けたのだ。

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この小文を実は丸4年前の2001年11月に書き上げていたのだが、私の人生にとって何せ明るい側面ではないので積極的に上梓する気にはならず、PCの片隅に眠らせていたものである。とは言え、紛れもなくこれは私の人生。

2005/10/1

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