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楽器は誰のもの

話はギターから入ってバスに至る。

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四半世紀近くも前の話だが、まだギターに熱中している頃のこと。学生時代に注文製作してもらった中出阪蔵ギターを火事で焼いてからは、楽器を買い換えたK後輩から不要になったヤマハギターを一万円で譲り受けて弾いていたものの、やはり良い楽器を弾きたくて無理をしてラミレスギターを買った。焼けてしまった中出は優しく甘い音だったが、ラミレスは太くてがっしりした音。良く鳴って私の自慢の楽器だった。

所がその後、音楽人生は自分の予想と異なり、コントラバスを弾く事になってしまった。やがてそのコントラバスに惚れた。でも長年ギターを演奏してきただけに、そういう自分を心から信じることが出来ず、取り敢えずベニア製バスを買って私自身の様子を見ることにした。良くない譬えをすれば足入れ婚だ。所が私の心は冷えることがなく、ラミレスは空しくケースに入ったままになった。

一つの理由には良い弓が欲しくなったこと、二つの理由にはラミレスを死蔵するのはラミレスに対して申し訳ないという気持、そんな事から当時のマンドリンクラブのギタリストに、引き受けてくれるなら譲りたいと申し出たところ、彼は喜んで引き取ってくれた。お陰で私はホイヤー弓を手に入れることが出来た。ホイヤーは、だからラミレスの生まれ変わりと思っている。

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それからおよそ15年が経った。その彼から、後に彼が別に設立したマンドリンクラブに誘われた。彼とのこれまでのお付き合いの歴史を考えて、団友(つまり団員ではなく常に賛助)として参加するようになった。団友という立場は私が勝手に作ったものだが、これについては又別の機会にお話することがあるかも知れない。


彼はめったなことではラミレスを練習に持ってこないが、舞台でソロ 又は合わせ物をする時は、昔の私の楽器に客席から再会する。彼は自分の手に合わせて糸枕を取り替え、磨り減ったフレットを打ち直し、すっかり馴染んで彼の体の一部になっている。音も私が使っていた時より更にずっと良く鳴る。ラミレスは幸せな余生を送っているのだ。

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そんなラミレスを見るにつけ、楽器は誰のものだろうかと一般論に拡げて考える。


確かに対価を支払えば楽器はその人のものになる。誰もそれに対して異論を差し挟むことはない。ギターは比較的楽器寿命が短いそうだが、バスは人の寿命をはるかに上回る。健康に気をつけてやれば、奏者の音楽人生を、仮に50年として、その間一つの楽器を弾き続けたとしても、バス寿命の何割かの間を所有できるに過ぎない。奏者は現役のあいだに楽器を持ち換える事がある。とするとバスから見れば、所有者とは僅かの期間のお付き合いと言える。

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楽器は預かり物、そう考えたほうが良さそうだ。又は経営者が人を雇い入れるのに似ていると考えたらどうだろう。雇用者から見れば雇い入れた経営者に対して労働提供時間内は誠意を尽くさねばならないが、人格すべてを売り渡すのではなく、経営者の私有物ではない。バスもそのときの所有者に生殺与奪の権限を与えてはいないのではないだろうか。

ストラディバリ等銘器を所有する博物館が、しかるべく選んだ奏者へ貸し出しをするのはその意味で”当然”に限りなく近い”よいこと”だ。 逆に弾く事なく死蔵する収集家をどう考えたら良いだろうか。

ストラディに比ぶべくもないが私は楽器を弾かない長男に、私が死んだらバスに私への思いを残すことなく直ちに人に譲るように申し伝えてある。死ぬ話は勿論早すぎるが、でもいつ死んでもおかしくないのが人間だ。

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楽器は音を出す能力が十分ある間は、個人の資産という面と併せて、更に広く社会の資産と考えてはどうだろう。楽器は預かり物、その預け主は社会。つまり購入の際に支払った金で得たものは完全な形の所有権でなく、期限を定めない賃借権であり、売る時は買い手に売り払うのではなく社会にお返しをすると考えて見ては如何だろうか。

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この草稿を横から読んだ家内が”私はあなたに結納金で買われた所有物ではありませんよ”と鋭い釘を差し込んできた。私が死んだら おのれを社会資産と見なして再婚する気か。

2001/6/29

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