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母娘のコンサート

耶馬溪をもっともっと上流に遡った所にこじんまりとして山に囲まれた、その名も山国町という静かな集落がある。その町の中心を外れかかった所にガラス張りの鋭い稜線で構成された外観を持つ建物がある。中はおよそ400人弱を収容する円形の小ホール、舞台が低く客席に張り出していて一体感を持てるものだ。そこでこのコンサートは開かれた。

ほヾ満員の聴衆に囲まれるようにしてそのアフリカ人は民族楽器を弾いた。ちょっとばかり津軽三味線を連想させる音色と音楽だった。達者な日本語のトークを交え、会場からの質問にも答えながらコンサートは和やかに進行していった。

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このコンサートは大学受験前の高校三年生の女の子がアフリカのミュージシャン、ママドゥの生き様に興味を持ち、彼女の興味に母親が関心を持ち、そしてママドゥを動かして実現したのだ。ママドゥはその昔サンタナというロックバンドに属していたギタリストである。女の子の名前は茜さんという。
茜さんのご両親は私の家から200M離れたところで食べ物やさんを経営している。レストランではなく、食堂でもなく、来た人たちに家庭料理を食べさせるこざっぱりしたダイニングルームというべきお店だ。ご主人が厨房を担当し、お母ちゃんがサービスとお喋りを担当する。昼時、お客さんは常連で賑わっている。私も家内不在の時はその店へ出掛けてゆく。

そこに高校生の女の子がいることは知っていた。彼女はある在日外国人の考え方に大変共鳴し、その人が書いた本を大事にしていたが、食事をしに行った時に店に置いてあったその本を読もうとすると<読まないで下さい。読むなら本屋さんで買って読んでください>と咎められた事からその子に興味を持った。私が本を買う事で印税が著者に入り、それでもって著者が目指す社会福祉がその分だけ早く実現する、と茜さんは補足した。なるほど、彼女の考えには一理がある。

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2001年に入って間もなく、お母ちゃんからコンサートを主催するから聴きに来ないかと誘われた。いいよ、と答えながら素人がアーチストを呼んでコンサートをする難しさを知っているだけに、人ごとながら気掛かりだった。その後その店へ行くチャンスもなく、暫く忘れていたが、コンサートの20日位前だったか又食事に行ったときに聞いて見た。<あれ、どうなった?><券が足りなくて、余分に預けた人から回収しているんよ。あんたの分は、はいこれ> 恐れ入りました。足りなくなっているとは。

お母ちゃんは茜さんに大学受験は1校だけにすること、もし受からなければ大学は諦めるように申し渡す一方で、受験直前の我が子の夢を一緒になって叶えようとした事に私は興味を持ったし、茜さんの心の軌跡にも大変興味を感じた。何が母娘をそこまで駆り立てたのか、知りたいと思った。以下はそのレポート。

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茜さんは、テレビに出演していたママドゥが”僕はミュージシャンだから、例え飯が食えなくとも音楽以外の仕事はしない”と番組の中で言うのを聞いて、自分の職業にこれほどまでに強い執着を持つ大人を周りに知らなかった茜さんは新鮮な興味を持ったという。

ところで高校で”先輩に学ぶ人生観”というレポート提出の宿題が出された。茜さんはママドゥのCDを買っていたのだが、そのCDには彼への連絡先が記載されていた。彼をレポートのテーマに選んだ茜さんはそれを頼りにメールでコンタクトを取り、考えを聞きながら宿題を仕上げていった。この高校生、なまじっかの行動力ではない。

茜さんには小学生の頃から本や映画を通じて”外国”を強く意識していたという素地があったがそれが彼女の背中を押したのだろう、次に進んでママドゥと直接会ってみたいと思ったが、その為には彼を訪ねるか、彼に来て貰うかしかない。恐るべき彼女は来て貰う方を選んだ。

一つにはコンサートを企画することでこのつながりを個人的なものに止めるのではなく、彼女自身がそうであったように小中学生が世界に目を開くきっかけになればと思い、又一つには音楽を奏でるミュージシャンとしてのママドゥを彼等と一緒に聴きたかったのだろう。そうすることで彼の職業の助けにもなる。それは丁度”その本を買って読んで下さい”の延長線上にある考えだ。

彼女は先ず通っている高校にコンサートを開催するよう交渉したが残念ながら全く相手にされなかった。企図は挫折するのだが娘の気持ちを汲んだお母ちゃんは直接彼に電話を掛けた時にこう言ったのだ。”私がすべてマネージメントをすることを条件でコンサートをするとしたら、あなたは演奏をしに来てくれますか?””。。。(ちょっと考えて)いいよ しかし僕はプロだからいくら友達でもただでは行けないよ” 即OKサイン。この間10秒。


最初に茜さんが彼にコンタクトを取ってからわずか2ヶ月余り。ママドゥがその時”友達”という言葉を使ったには、茜さんとのメールのやり取りで真面目で一途な彼女の生き方を感じ取っていたからに違いない。そしてこんな電話を掛けるお母ちゃん自身もまた彼の音楽を気に入ってしまっていたのだ。だから三人の間に何かしら共通の感情が流れていたのだろう。けれどもお母ちゃんが電話を掛けたのはコンサートを打診するためではなく、娘の宿題に付き合った彼にお礼を言いたかったのだ。コンサートとは会話の中で思わず口に出た言葉、家族でちょっとは話題にしていたとは言え、茜さんは成り行きのスムーズさに驚いてしまった。

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素人が組織も持たずにコンサートを企画するのは通常大変な苦労を伴うが、それでもお母ちゃんはいとも易々とやり遂げた。広範囲にわたる豊富な人脈と積極性/好奇心、そして<赤字結構、儲ける為にやるのではない ママドゥの知名度もあるし何とかなるだろう>という無鉄砲に近い思い切りの良さ。お母ちゃんも並みのお母ちゃんではない、最初に書いたように見事コンサートを成功させた。舞台の上からお母ちゃんのお礼の挨拶は堂々として立派だった。

一方、茜さんは舞台の袖でコンサートを見守った。彼女の言葉を引用すれば”実は 涙をずっとこらえていました…。なんか、本物のママドゥの音楽に強いもの/やさしいものを感じたのと彼は生きているんだっていうことを感じたのとコンサートまでのつらかったことがすべて頭に浮かんだのとで、かなり感動していました”。

そうだろう、九州入りした彼を迎えて中津まで案内する間、周囲をリラックスさせる彼の暖かい人間性が彼女を包み、そしてそれが今会場の人達を包んでいるのを見て、彼女がコンサートにこめた思いは会場の皆に十分伝わったと実感したことだろう。特別な事をやり遂げた人だけが持てる感傷だ。

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彼が九州を離れ東京に戻ってからはTV画面で出会う彼に”テレビの人”という遠い距離感覚を持ちながらも、コンサートとその前後の時間を共有した親近感にひたるのである。

その時ママドゥが含んでいたミントの香りの清涼剤を、彼女は今愛用している。

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この小文はメールによるインタビューに茜さんが答え、その往復を元にお母ちゃんからの聞き取りを加味して書いたものである。

食事をしに店に行った時はお母ちゃんとも相変わらず話しをするが、その中でポツンと”これから先何人の人に会えるかと考えたら、自分から行かんとね”と、私に向かってというより自分自身に話しかけたその言葉は、この母娘の生き様とこのコンサートを企画し成功させた原動力を象徴するものとして心に残っている。

2002/7/2

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